以前、ダイエット番組について書いた。マスコミの立場にある側として、とてもズルイ内容だと。しかし相変わらずダイエットを取り上げたテレビ番組は花盛りだ。相当数字を稼げて、コンテンツとしてとても高く売れるのだと思う。そしてとくにオタク評論家の彼は、どうも引っ張りだこの様子。私思うに、彼はダイエットという言葉の強烈な誘引力、金鉱脈ぶりに気付いたのだろう。これは金になる、と。果たしてそれは正解であったように思う。
失礼、少し間違えた。ただのダイエットではなく、「簡単に痩せられる」ダイエット、「食事制限なしに痩せられる」ダイエットには、人を強力にひきつける魅力があるのだろう。「○○をするだけ」、「○○を食べるだけ」。痩せたい人間がこれほど多いという事は、それだけ太った人間が多いという事でもある(国策的「メタボ」プロパガンダの影響もあるとは思うが・・・)。
私見を述べれば、太る人間は確実に何かを食べてカロリーを摂取している。もし水だけで太れるなら世の中から貧困は無くなるはず。かくいう私も現在はピーク時から25kg体重が減っているが、太っていた時は今と比べてかなりの食べ物を食べていた。ともすれば一日5食近く食べていた時もあるぐらいだ。だから重ねて言うが、「そんなに何も食べてないのに太る~」というのは間違いなく嘘である。そんな人は確実に食べている、一日の代謝カロリー以上のものを。
太っている人間というのは、
①食欲が我慢出来ない。
②自分に対していい訳をする。
③自分勝手なカロリー計算をする。
④折角のダイエット情報も耳障りの良い部分ばかり聞く。
⑤自らを直視出来ない。
⑥客観的正当な意見を聞き入れられない。
という傾向があるように思う。
①は単純。目の前の食べ物を食べずにはいられない。私自身、今でもそう。手の届く範囲から食べ物を遠ざけるのが肝要。特に間食好きは要注意。手軽にハイカロリーが摂取出来てしまう。
②については、③にも通じるところがあるが、殊食べる事に関して雄弁に自己弁護を図る。「これぐらい食べても大丈夫」、「その分、明日減らす」などがよく聞かれる言葉。自分にいい訳する時点で既に終わっている。
③についてはあてはまる人間が多いのではないだろうか。「いつも食べている○○を今日は食べていないから、今これを食べても大丈夫」。「朝抜いたから、昼ご飯はちょっと多く食べても問題ない」、「お菓子食べなかったから、夜ご飯2杯たべてもOK」など。既に太っている食生活の中で差し引きしている時点で問題だが、大体がこの差し引きもいい加減。
④は特に女性。例えば朝バナナダイエットは「朝食の代わりにバナナと水を摂取する」のがミソで、「摂取後15分経てば何を摂取しても構わない」という部分だけ捉えて、食べ足りない朝食をその15分後の食で補っていれば意味がない(知人女性の会話より)。何故バナナなのかの理由を理解すべき。
⑤もよくある話で、自分の現状が認識出来ない。客観視できない。少なくとも身長から90引いた数字より体重が多ければ、確実に肥満体系である。それ以前に体重計に乗らない人間が多いのも事実。
⑥は⑤から続く話、認識出来ていないから当然正しい声も届かない。当人には正しくないのだから。正しくない意見に傾ける耳は無い。
私の場合は、特に間食を止め、食事の量を平均的なものに戻しただけで体重を減らした(1年半かけて)。ただこの平均に戻すという作業に苦痛が伴う訳で、逆にそこが出来ない人間が体重を増やしてしまう。規則正しい適量の食事と適度な運動。ただ単にこういう生活習慣にするのが、実は体重を減らす一番の近道であるように思われる。
うろ覚えであるが、ショートショートの達人がこういった内容の話を書いていた。
今よりもっと高度に科学が進んだ時、その科学は「一日にカプセル3つで済む食事」の開発ではなく、「いくら食べても太らなく美味しい0カロリーの食事」の開発へと向かう。
すごい真理を突いている・・・。あぁ、なんと人間の欲深い事・・・。
「コンビニ店長のためのPOP駆け込み寺」
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よくSFなどにある自らの自我や記憶を複製し、他の体もしくは機械にコピーするというシチュエーション。不老長寿という夢を考えた時に、肉体の入れ替え、もしくは肉体からの脱却という側面でしばしば見られる。
もしあなたが自我を複製できたとして、それが例えば他の体にコピーすることが出来た時、複製先の体はあなたと同じ記憶、自我を持っている。だがそれはあなた自身ではない。あなた自身はそれを客観的に見ているのだから。
複製元が消えればよいのだろうか。PC上のファイル移動「切り取り」のように。ではそこで移動した自我はあなた自身だろうか。今のあなたそのものが移動するのだろうか。そうは思わない。消えた時点であなたの自我は死ぬ。移動したあなたの自我は、あなたと全く同じ、しかしあなたではない「あなた」。
自分が自分であるという事は、自分でしか分からない。外から見て全く同じ人格の人間が二人居たとして、あなたがあなた自身である事は傍目にはもはやあなた自身にしか分からない。自我をコピーできたとして、でもそれは同じ事を考え、同じ事を感じる別のあなた。きっと相手も同じ事を考えているが、それは他者でしかない。
「Cogito ergo sum(我考えるゆえに我あり)」という有名な言葉があるが、自我は根源的な自らの存在確認であるように思う。そもそもあなたとは何だろうか。あなたはどこにあるのだろうか。あなたがあなたであるというのはどういう事だろうか。
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一世を風靡した「ブランド」そのものを売買する場があったりしないかなぁということをちょっと考えてみた。
例えば世間を騒がせた「ライブドア」。これは元々別の会社だったものをホリエモンを買い取って二次使用していた形。かなり以前に色んな芸能人が出てプロバイダ事業のCMを行っていた事がかすかに記憶にある。
一からブランドを作りあげるのではなく、ある程度浸透した、でも今は誰も使っていないブランドをよそから持ってきてそれに乗っかるというのは、モノの考え方としてとても合理的であると思うし、上手いと思う。
こういう事を考えている人間は他にもいるのではないかと思う。だからそれを流通させる仕組みがネット上にあれば、意外と人が集まるのではないかと思ってみたりする・・・。一度買い取って、売り出すという手法があっても良いかもしれない。
一つ思いついたのが、「パルナス」。関西である程度の年齢以上の人間ならば誰もが知っている洋菓子のブランド。「モスクワの味」のサブタイトルでとても浸透していたが、今は既に事業を終了し誰も使用していない。あれだけ浸透していただけにとても勿体無いように思う。これから洋菓子店、ないしは洋菓子チェーンを目論んでいるような人には、関西で地盤を築くのにうってつけのブランドかもしれない。
商品のブランド自体は企業間で良く移動する。清涼飲料水だけで考えてみても「リプトン」「C1000レモンウォーター」などはそれぞれ以前と今では製造会社が違う。企業ブランドそのものを売買する場があっても良いように思うのだが・・・。
世間がややこしくなったりするんだろうか・・・。それとも知的財産権的な権利関係は意外と煩雑だったりして・・・。う~ん、やっぱりただの思いつき・・・。
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無料アバターサービスの「カフェスタ」が有料会員への移行をユーザーに呼び掛けた事が話題になったが、ここでいわゆる広告に頼ったビジネスの限界説がセットのように論じられていたが果たしてそうだろうか。
以前からこういう分野に少し関心があったが、テレビ、ラジオというメディアを筆頭に、ネット世界でなくても広告収入によるサービス展開は当たり前のようにある気がする。ただそこに広告的魅力があるか否かが問題であって、勿論不況時に広告宣伝費が減るという事実はあるのだろうが、それが全くゼロになるという訳でもない以上、いかにしてそれを獲得するかが大きな問題。そこには色んな手段はあってしかるべきであるように思う。前述のカフェスタにしても、ただ提供しているサービスが広告出稿に見合わなくなってきたというだけの話ではないだろか。
そんな中で、アドバシなる事業に興味を持った。広告する(advertise)箸だからアドバシ。これに出会うまでもなく、アメリカで紙ナプキンに広告を入れるビジネスがあることを知っていたので、日本でなら割り箸だろうとは考えていたが、既に同じ事を考えていた人間はいたようで、元々は電通か何かの考えがベースになっている様子。
ただこの事業、今はNPO法人による運営でイマイチ盛り上がりに欠けるような気がする。コンビニでの使用とか、広告主の多様性のなさとか、非営利だけにさすがに営利目的とは一味違う。どこかの営利法人がやればもっと面白くなる気がするのに・・・。はっきり言ってMY箸なんかよりよっぽど環境貢献出来そうなんだが。アクの無い運営でとても勿体無い印象を受ける。
1、国産間伐材や端材の使用(木材が売れない→林業の衰退という負のスパイラルを断ち切る)
2、使用後の箸のリサイクル
などの点は、エコ時代に十分乗れる要素。森林保護に繋がる事を同時に啓蒙していけば、必ずしも割り箸が悪者ではない事は世間にも理解できるはず。(国内の森林を育て利用し、海外の森林を伐採から守るという観点)
問題は広告であるのに、露出が少ないという事。広告する媒体である以上、人の目にできるだけ多く触れなければ意味がない。これでは広告主もあまり集まらないに違いない。また、広告が入ってはいるが、有料であるということもイマイチ普及しない原因のように感じる。国産材を使用することで上がったコストを吸収することのみに広告収入が使われている。「これで中国産とそんなに価格が変わらないでしょ?」という感じ。
例えば、無料にすることを考える。これで普及に弾みがつくし、露出が増えれば広告としての価値も上がる。それにはより高い費用を出してくれる広告主を探す必要がある。そのために必要な事は相手を見て広告費を少し大きめに変えるということ。googleアドセンスと同じ発想にすればよい。金貸し、アダルト、などは広告費を高く設定する。それで全額を賄う。より多くの広告収入が得られる広告ならば、配布先に金銭の還元があってもよいかもしれない。
例えば、配布先を限定しない。ネットであらゆる配布先に門戸を広げる。アダルト広告が入っていようが気にしないような場末の食堂ならば、無料で箸が手に入ればこんなに嬉しいことは無いはず。固定費が微力ながらも下がるであろうから。
例えば、配布先の立地に会った広告にする。パチンコ店横の食堂には消費者金融の広告を配布するとか。ネット世界の考え方は実世界にも利用する事は出来るはず。
例えば、デザインコンペを開催する。広告主企業参加型のコンペを開催し、アドバシ自体の認知度向上と共に、イメージ向上を考える企業の取り込みを考える。同時に参加企業のイメージを取り込んで、アドバシ自体のプレゼンス向上に繋がれば尚良い。
誰か一緒にやりません?(笑)
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30歳を超えているにもかかわらずマンガを電車で読む人間かここにもいるが、この「にもかかわらず」という部分に共感する日本人があまりに多いために、この国は自身が得意とする産業をみすみす逃そうとしている。
おっさんにもかかわらず電車でマンガを読む
電気街をうろうろする人間をオタクと揶揄する
これらの風潮がおそらく大半の日本人の間で常識的思考として存在しているように感じるが、これは相当勿体無いミスリードになっているように思う。この分野の産業的魅力に気づいていないからだ。こうした認識を持つ一方で、これらの人間も知っているとは思うが、日本発のサブカルチャーは今や世界中の人間を虜にしている。勿論ハリウッド映画的に老若男女という訳にはいかないだろうが、少なくとも外国人が日本文化を捕らえる上で、欠かせないパーツになっているのは間違いない。
江戸時代の浮世絵と同じものを感じる。当時ヨーロッパでは、日本から輸入されてくる器の緩衝材として使われていた浮世絵の素晴らしさに、とても感銘を受けたと言われる。日本人から見ると無価値であったものが、外の世界にいた人間からみると立派な芸術に見えた。まさか北斎も自分の浮世絵が外国の美術館に飾られる日が来る事など想像だにしていなかったに違いない。
日本のサブカルチャーは文化である。いつまでも「サブ」扱いをしているようでは国家としてかなりの機会損失を被る事になる。国家的に取り組めば、立派に世界に輸出できる産業になりうるはず。もう既に技術的な面が東南アジア方面に流出している事を危惧する声は以前から聞こえている。
日本のどこかに、ハリウッド的にサブカルチャーに関わる企業を集積させるよう、特区などを設定していくなどの方法論はあっても良い気がする。外からの人材も積極的に受け入れる体制が作られても良いだろう(技術者移民の受け入れなど)。ハリウッド映画はアメリカ人だけで作られている訳ではない。世界中のサブカルチャーを目指す人間は日本の○○市を目指す、そんな状況があればいいのに・・・。
どうでしょう?橋下知事(笑)。ベイエリアに埋め立て地がいっぱい余っているかと思いますが・・・。
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