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よくSFなどにある自らの自我や記憶を複製し、他の体もしくは機械にコピーするというシチュエーション。不老長寿という夢を考えた時に、肉体の入れ替え、もしくは肉体からの脱却という側面でしばしば見られる。
もしあなたが自我を複製できたとして、それが例えば他の体にコピーすることが出来た時、複製先の体はあなたと同じ記憶、自我を持っている。だがそれはあなた自身ではない。あなた自身はそれを客観的に見ているのだから。
複製元が消えればよいのだろうか。PC上のファイル移動「切り取り」のように。ではそこで移動した自我はあなた自身だろうか。今のあなたそのものが移動するのだろうか。そうは思わない。消えた時点であなたの自我は死ぬ。移動したあなたの自我は、あなたと全く同じ、しかしあなたではない「あなた」。
自分が自分であるという事は、自分でしか分からない。外から見て全く同じ人格の人間が二人居たとして、あなたがあなた自身である事は傍目にはもはやあなた自身にしか分からない。自我をコピーできたとして、でもそれは同じ事を考え、同じ事を感じる別のあなた。きっと相手も同じ事を考えているが、それは他者でしかない。
「Cogito ergo sum(我考えるゆえに我あり)」という有名な言葉があるが、自我は根源的な自らの存在確認であるように思う。そもそもあなたとは何だろうか。あなたはどこにあるのだろうか。あなたがあなたであるというのはどういう事だろうか。
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