KYとも揶揄される空気が読めない人達、これは単に状況を弁えず振舞うというだけではないように思う。勿論、笑ってはいけないとことで笑ったりだとか、相手の発言に対して変なところで合いの手入れたりだとか、ボケに対して見当違いのツッコミを入れたりだとか、そういうのは絶対的に空気が読めない人。
でも例えばこういう話。長い間咳ばかりしている人、この人に対して「医者に行った方が良いですよ」と何度か声を掛ける。「いや、大丈夫です」との答えが毎度返ってくる。2週間していよいよ咳がひどくなり、「やっぱり変です、医者に行って下さい。体を大事にしてください」と声を掛ける。すると「いや大丈夫。心配してくれてありがとう」なんて返答。一見ありきたりかもしれない場面だが、空気が読める人は遅くともここで「あぁ、この咳は周りに迷惑を掛けているのだな」と気付く。そもそも敏感な人はその前に何度か同じ人から医者へ行けと言われれば迷惑してるの意味だと感じることができる。だが、空気が読めない人は「この人はそんなに私の事を心配してくれてるんだな」で終わる。人が良いだけに余計に対処がしづらい。
勿論言ってる側も心配して声を掛けてはいる。しかし、そこには咳が煩い、だとか、変な病気に罹ってるんじゃ・・、だとか自らに対する何らかの不利益への不安という側面も少なからずあるだろう。他者に対する無私の愛というのはそうは存在しない。
空気とは、言外にある様々なものを指す。それは相手の話を聞き、そこにある言葉の外にあるものを感じる事で初めて読めてくる。空気が読めない人はこの能力に乏しい、若しくは初めから相手の話を聞く能力が無いに等しい。だから空気が読めない人はそもそも自分の空気が読めない事で周りの空気に何らかの違和感を与えている事それ自体すら感じる事は出来ない。ゆえに指摘されても理解が出来ない。結局空気は読めないまま。ある意味とても幸せで、ある意味とても不幸な人達。
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